子どもの頃は、好きなものに理由なんて必要なかった。
赤いランドセルが好きだった。
あの漫画が好きだった。
あの曲が好きだった。
あの車が好きだった。
ただ、それだけだった。
「どうして好きなの?」
そう聞かれても、たぶん答えられなかった。
答えられなくても、何も困らなかった。
好きという感情は、それだけで完結していた。
ところが、大人になると、いつの間にか事情が変わっている。
好きなものを好きだと言うと、
「どうして?」
と聞かれる。
車なら、
「何がいいの?」
「燃費は?」
「使い勝手は?」
「その値段を出す価値があるの?」
「他の車じゃダメなの?」
気がつけば、自分の「好き」に対して、説明責任を負わされている。
そして不思議なことに、僕たちはそれを当然のこととして受け入れている。
「好き」だけでは、許されなくなった
たぶん、大人になるということは、物事に理由をつけることなのだと思う。
なぜその仕事をするのか。
なぜそこに住むのか。
なぜその人と結婚するのか。
なぜその車を買うのか。
なぜそのお金を使うのか。
何かを選ぶたびに、理由が必要になる。
合理的であること。
効率的であること。
将来の役に立つこと。
損をしないこと。
失敗しないこと。
そうやって僕たちは、自分の人生を「正しい選択」の積み重ねに変えていく。
もちろん、それは悪いことではない。
大人には責任がある。
家族がいれば、自分だけの都合では決められない。
お金には限りがある。
時間にも限りがある。
だから、理由を考えることは必要だ。
でも、ときどき思う。
理由のあるものしか好きになれなくなったとしたら、それは少し寂しいことではないだろうか。
好きになる前に、損得を考えている
子どもの頃は、好きになってから理由を探した。
今は違う。
理由を探してから、好きになろうとしている。
この違いは、意外と大きい。
「これは自分に必要か?」
「買う意味はあるか?」
「コストに見合っているか?」
「長く使えるか?」
そんなことを考えているうちに、本当は欲しかったものを諦めてしまう。
そして最後には、
「まあ、必要ないよね」
と自分を納得させる。
たしかに、正しい。
正しいのだけれど、その「正しさ」の中に、自分の気持ちはどれくらい残っているのだろう。
JEEPを見ていると、そんなことを考える
たとえばJEEP。
キャンプをするわけでもない。
アウトドアが趣味なわけでもない。
荷物を大量に積むわけでもない。
燃費だけを考えれば、もっと合理的な車はいくらでもある。
「なぜJEEPなの?」
と聞かれたら、答えるのが難しい。
デザインが好きだから。
存在感が好きだから。
運転している自分を想像すると、少し嬉しくなるから。
たぶん、それくらいだ。
でも、それでは大人の答えとして不十分なのだろう。
「それだけ?」
と言われるかもしれない。
それだけだ。
そして、本当は「それだけ」で十分なのだと思う。
人間は、理由のないものに惹かれる
よく考えてみれば、人生の大切なものほど、理由を説明できない。
なぜ、この人を好きになったのか。
なぜ、この場所に心を奪われるのか。
なぜ、ある一曲を聴くと昔の記憶が蘇るのか。
なぜ、夕方の空を見ると少し寂しくなるのか。
なぜ、何気ない言葉が何年経っても心に残っているのか。
説明できない。
科学的に説明しようと思えば、いくらでも説明できるのかもしれない。
脳の仕組みだとか、記憶だとか、経験だとか、ホルモンだとか。
でも、それで「なぜ好きなのか」という問いに本当に答えたことになるのだろうか。
たぶん違う。
人間の感情には、説明することで失われてしまう部分がある。
「好き」は、理由の集合ではない。
理由より先に存在している。
それでも僕たちは、説明しようとする
なぜなら、説明できるものは安心だからだ。
理由があれば、自分の選択を正当化できる。
誰かに否定されても反論できる。
「これにはこういうメリットがある」
「こういう理由で選んだ」
そう言えば、自分の選択が間違っていないような気がする。
つまり僕たちは、好きなものを選ぶために理由を探しているというより、
「好きなものを好きだと言ってもいい自分」を許すために、理由を探しているのかもしれない。
これは、少し悲しい。
「好き」は、もっとわがままでよかった
子どもの頃の自分なら、
「カッコいいから」
だけで十分だった。
むしろ、それ以上の説明なんて必要なかった。
大人になった今は、
「実用性が……」
「維持費が……」
「リセールが……」
「家族が……」
「将来が……」
と、たくさんの言葉を並べる。
もちろん、それらは全部大事だ。
でも、その言葉の最後に、
「それでも、好きなんだ」
という一言が残っているなら、それを無視してはいけない気がする。
人生は、正しいものだけでできているわけではない。
効率の悪いもの。
役に立たないもの。
説明できないもの。
なくても困らないもの。
それでも、なぜか心が動いてしまうもの。
そういうものが、人生を少しだけ自分のものにしてくれる。
40代になって、もう一度「好き」を取り戻す
40代になると、失敗したくなくなる。
若い頃よりも、失うものが増えているからだ。
だから慎重になる。
正解を探す。
人の目も気になる。
「この年齢でこんな車に乗っていいのか」
「今さら何をやっているんだと思われないか」
「もっと家族のために使ったほうがいいんじゃないか」
そんな声が、自分の中からも聞こえてくる。
でも、人生が折り返しに近づいたからこそ、思う。
そろそろ、自分の「好き」を説明することをやめてもいいんじゃないか。
好きだから好き。
乗りたいから乗る。
欲しいから欲しい。
それでいい。
もちろん、家族と相談する。
お金の計算もする。
現実的な問題も考える。
でも最後の最後に残るものまで、合理性で決めなくてもいい。
JEEPが教えてくれること
JEEPに乗ったからといって、人生が変わるわけではない。
毎日が突然楽しくなるわけでもない。
仕事がうまくいくわけでもない。
家族との関係が良くなるわけでもない。
ただ、駐車場にJEEPがある。
それを見る。
キーを手に取る。
ドアを開ける。
エンジンをかける。
そして少しだけ、
「やっぱり、これ好きだな」
と思う。
もしかすると、それだけなのだ。
でも、40代になった今、その「それだけ」が意外と貴重なのかもしれない。
誰かのためでもない。
得をするためでもない。
将来のためでもない。
ただ、自分の心が動いたから。
それを理由にしてもいい。
「好き」に理由を求めるようになった。
大人になったからだと思っていた。
でも、もしかすると逆なのかもしれない。
大人になったからこそ、
理由のない「好き」を、もう一度取り戻す必要があるのかもしれない。
子どもの頃は、好きなものを好きと言えた。
大人になって、それができなくなった。
だからもう一度、自分に聞いてみる。
「あなたは、本当は何が好きだった?」
答えがすぐに出てこなくてもいい。
長い間、家族のために生きてきた人ならなおさらだ。
仕事のために。
生活のために。
責任のために。
誰かを守るために。
そうやって自分の「好き」を後回しにしてきたのだから。
そしてもし、そこにJEEPがあったのなら。
それは単なる車の話ではないのかもしれない。
自分の人生を、自分の「好き」からもう一度始めてみる。
その最初の一台が、たまたまJEEPだった。
それくらいの理由で、いいのだと思う。